リサイクルショップ 東京の公開パターン
規定に基づいて、一九八六年三月には、ついに全ての預金金利規制が撤廃されることになったのである。
以降、アメリカにおける金融自由化はその第二段階に入る。
そこでは、様々な業態の金融サービス提供者の間で、激しい新金融商品開発競争が繰り広げられることになる。
金利自由化によって蟻の一穴が開いてしまえば、そこから先は「帰らざる河」であった。
次々と新手の金融手法が考案され、目新しい金融商品が投資家をハイリスク・ハイリターンの世界へと誘っていく。
「金融スーパーマーケット」時代の開幕である。
ここまでの展開をいま一度振り返っておこう。
二○○八年九月がグローバル恐慌に向けて地獄の一扉が開いた時なら、一九七一年八月は金融自由化に向けてパンドラの箱の蓋が開いた時だった。
ニクソン・ショックによってドルのインフレ通貨化が始まった。
そのことがアメリカ経済の高金利化をもたらし、金利自由化への突破口を開くことになった。
パンドラの箱から妖精たちが飛び出して、地獄の扉の制作に着手した瞬間。
それがニクソン・ショックであった。
それから一五年後の一九八六年には金利自由化のプロセスが完了した。
次に来たのが金融業務のあり方そのものを巡る大変化の場面である。
その様子を次節でみよう。
新金融商品開発の知恵比べは、実に様々な新手の商品とサービスを生み出していった。
金利自由化から金融証券化へ「金融スーパーマーケット」そればかりではない。
金融のIT化には、他分野からの金融サービスへの参入を促す効果があった。
その典型が大規模小売業であった。
巨大なコンピューター・ネットワークを持つ大規模小売業者たちが、競って消費者金融ビジネスに進出した。
例えばアメリカを代表する廉価量販店のシアーズ・ローバック社である。
子会社方式で金融・証券・保険・不動産等々、あらゆる金融関連分野に手を伸ばしていった。
アメリカン・エキスプレス社なMMC、SSC、ASC等々である。
金融機関の店頭は、さながら何でもありの家電量販店並みの賑々しさを示し始めていた。
こうした金融商品の百花練乱には、金融のIT化が大きく貢献した。
情報通信技術が大躍進を遂げたおかげで、金融機関は顧客や取引に関する情報を従来とは比べるべくもなく大量に、そして迅速に処理出来るようになった。
膨大なデータを瞬時にして整理し、吟味し、加工する道が開けたことで、金融分野における商品イノベーションは止まるところを知らない爆発力を示すことになったのである。
多くの場合、こうしたにわかづくりの金融多角化路線はその後に見直しを迫られることになる。
だが、誰もが金融革命の甘い香りに酔いしれた一九八○年代においては、さながら、この分野に手を伸ばさざる者、ビジネス戦士にあらずの雰囲気が世の中を席巻していた。
かくして、世はあげて金融スーパーマーケット化の方向に進むのであった。
一つ屋根の下で、ありとあらゆる金融サービスが提供される。
何もいちいち、銀行へ、証券会社へ、保険会社へと足を運ぶ必要はない。
一つところで、金融ショッピングの万事が事足りてしまうのであった。
こうなってくればくるほど、金融サービスを巡る競争は激化する。
スーパーマーケットは品揃えと値段が勝負だ。
売れ筋をよく心得ていて、しかも間口が広く、そして魅力的な商品構成をもって臨まなければ競争に勝てない。
地道な預金獲得ビジネスや、手堅い審査に基づく融資業務などは、次第に見向きもされなくなっていくのであった。
誰に、何のためにカネを提供するのか。
誰がどこまでどのようにリスクを負うのか。
そのようなことをいちいち考えている暇があったら、少しでも多くの顧客に少しでも斬新な金融商品を売りまくれ。
そうした発想が次第に金融機関の基本的な行動原理と化していく。
健全金融ならぬ冒険金融である。
冒険金融の道具立てとして、大きな役割を果たしたのが金融派生商品(デリバティブ)だ。
ここから、金融のIT化は金融の工学化へと展開していくことになる。
銀行業の何たるかは知らないが、ITと数理には長けている人々によって、冒険金融のための目新しいシールが次々と生み出される。
そのことが、金融スーパーマーケットの店頭を一段と華やかなものに仕立て上げていくのであった。
金融スーパーマーケットの新たな売れ筋商品の一つとして、ひときわ華麗に登場したのが、かの証券化商品である。
債権の証券化というやり方がどういう仕組みであるかについては、既にみた。
要は債権の福袋化である。
福袋を売る側にとっては、請求書の山が現金収入に生まれ変わる有り難いやり方だ。
しかも、同時に貸し倒れのリスクを福袋の買い手に転化することも出来てしまう。
買い手側にとっても、リスクはあるが、比較的買いやすい値段でハイリターンの夢を手に入れることが可能になる。
今となってみれば、こんな出来過ぎた話に、よくも人々が警戒心なく乗せられたものだ63証券化の出発点金融証券化の出発点は一九七○年代に遡る。
一九七○年に、政府抵当金庫が融資債権の証券化を始めたのが最初である。
GNMAはジニーメイの通称で知られる。
さきにみたファニーメイやフレディマックの仲間である。
国民皆持ち家を目指すアメリカの住宅政策の担い手三本柱の一つだ。
この三人組にとって、常に悩ましいのが融資余力問題であった。
みずから預金を集めてそれを貸し出すという方式では、どうしても融資能力に限界がある。
それに、健全経営を心がけようとすれば、むやみに貸し出しを増やすわけにはいかない。
だが、堅実にばかりしていたのでは、住宅ローン市場への潤沢な資金提供という本来の使命を十分には果たせない。
と思うやり方である。
ただ、この怪しげな商法も、元をたどれば概してまつとうな動機から生まれた工夫ではある。
むしろ、当初の狙いから離れて、証券化という手法だけが一人歩きするようになったことで、そもそもの設計者の意図とは無縁な方向に事態が展開してしまった面がある。
どこでどう調子が狂ったか。
その経緯は以下の通りだ。
このジレンマから脱却するための手段として、債権の証券化という手法が考案されたのである。
手持ちの住宅ローン債権を債権担保証券の形で売り出すということだ。
この証券に買い手がつけば、その収入が新たな貸し出しの資金源となる。
言い方をかえれば、証券化を通じて一般投資家と住宅ローンの借り手とを直接に結び付けることが出来る。
こうすれば、金融機関そのものの資金基盤問題とは無関係に、いくらでも住宅ローンを提供することが可能になる。
この仕組みがうまく働けば、ジニーとファニーとフレディの三人組は、健全経営についての心配から解放されて住宅ローン市場の活力維持に逼進出来る。
このように、証券化手法のそもそもの狙いは、融資拡大が事実上の公的使命である準公的金融機関に対して、その使命を安んじて全う出来る手段を提供することにあった。
一九七一年には、前年のジニーメイに続いてフレディマックも債権担保証券の発行を開始した。
要するに、この時点での証券化手法は、特定の公的な狙いのために考案された目的限定型の金融手法だったのである。
何でもありの証券化問題は、この使途限定的な手法が次第に一般化し、広範に活用されるようになっていったことである。
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